子どもの習い事、例えば水泳や体操を見ていると、どうしても「適性」というものを感じずにはいられません。
生まれつきの体の柔らかさ、バネ、あるいは発達段階による違い。
走るのが抜群に速い子もいれば、水の中だと誰よりも輝く子もいます。こればかりは、個性と言っていいでしょう。
私は長年、塾講師として多くの子どもたちを見てきましたが、正直に申し上げますと、勉強にも「適性」はあります。
もちろん、努力でカバーできる部分はたくさんあります。むしろ努力は不可欠です。
しかし、同じだけ努力をしても、すぐに結果が出る子と、時間がかかる子がいるのもまた事実。「適性の差」というのは、どうしても存在します。
ここで、ふと世の中の「不思議」について考えます。
例えば、足が速くなるために毎日必死で走り込みをしなくても、誰かに怒られることはありません。
足が速くなくても、将来を悲観されることはまずありません。
けれど、「勉強」となると話は別です。
「学歴社会が終わった」と言われて久しいですが、それでも社会からのプレッシャーは依然として強烈です。
「勉強ができないと将来困る」「選択肢が狭まる」という無言の圧力が、子どもたちの小さな背中にのしかかっています。
適性がある子もない子も、同じ土俵で競わなければならない。
これは、子どもたちにとって、大人が思う以上に辛く、過酷なことかもしれません。
だからこそ、私は思うのです。
私たち「塾」の役割は、単に点数を上げることだけではない、と。
勉強が得意な子も、そうでない子も、その重圧の中で必死に頑張っている。
そんな子どもたちの「辛さ」や「頑張り」を一番近くで理解し、支えていく存在でありたい。
適性による凸凹があってもいい。その子がその子らしく輝ける場所へ導けるよう、今日も全力で子どもたちと向き合っています